《文学とは誰かを救うものだ》【2004.09.28 16:26】

芥川賞作家である中上健次という作家は、私も名前こそは聞いたことがあったが、作品は読んだこともないし、彼がどういう人物であったかも知らない。
その中上が四十六歳という若さで亡くなってから、十三回忌に合わせて生地和歌山でシンポジウムが開かれた。そして、その模様が新聞に掲載されていた。
その中で、何人かの方々が言われていた言葉に物思うことがあり、ここに記す。

批評家の浅田彰氏はこう言っている。

『グローバル市場では、文学も癒しの商品として消費されるようになった。世界資本主義の中で、文学が扱ってきた内面の葛藤などは、単に薬物治療の対象と見なされるだけ。内面を忘れた平べったいコントロール社会で、「世界の中心で、愛をさけぶ」や「ハリー・ポッター」などが市場を席巻している』


内面を忘れた平べったいコントロール社会───この言葉はなかなか的を射ているなあと思った。確かに、上げられた作品たちはこの社会だったからこそ受け入れられ絶賛されているのだろうけれど、後者はどうか分からないが、前者はそれだけではなかったと思うのだが。
私はいまだにセカチューといわれる作品は読んでいない。映画もドラマも見ていない。映像に限りは、恐らく見たとしたらはまってしまうだろうという予感はしているのだが、時間が取れなくて見れなかった。小説は正直言って読む気はない。映像を見たとしたら読むだろうとは思うが、わざわざ買ってまでは読まないのではないかと思っている。読みたくないというわけではない。ただ、私は映像より先に小説は読みたくないだけなのだ。小説を読んでしまったら、恐らく映像は見る気がしないのではないかと思っている。
それから考えれば、ハリポタは映像を先に見たわけであるから、小説を読んでみてもいいとは思っている。そのうち読むのだろうが、優先はしない。私には読みたい本が他にもあり、欲求のまま読んでいくだけだから。

次に、作家である津島佑子氏はこう言っている。

『作家も生身の人間として生きている。例えば耐え難い苦痛があったとき、それと関係ない恋愛なり物語なりを書くことは、技術的に可能だが意味がない。作家は、自分には今これしか書けないということを書かないと、作品はただの作り物になる。これだけは時代が変わっても同じだと、私は思うんです』


私は、内心を隠してそれとは別のものを書くということもありだと思うのだが。
氏の言わんとしていることは分かる。今しか書けないものを書くというスタンスは私の中にも確実に存在するから。そして、それが時代が変わっても同じであるということもわかる。
だがしかし、その内面を押し殺してそれとは正反対なものを書くこと───特に明るくほのぼのとしたものを───は、見方を変えれば訴えかけるものがあると思うのだ。
もちろん、察することのできる人間にしか作者の真の想いは受け取れはしないと思うのだが、もし仮に受け取ってもらえなくても、少なくとも私はそれでも構わないと思っている。
文学の捉え方は、確かに「これである」という取り決めが存在するのだろうが、私に限っては「人々を救うもの」であると思っている。どんなジャンルであろうとも。
それが、書く人間が救われるのか、読む人間が救われるのか、二つに分かれるとは思うが、そのどちらにしても「救う」という点では同じことだろう。

文学は誰かを救わなければ意味がない。

私はそう思うよ。

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